一日一句 2011・3・27(日) 晴れ、68,0キロ 句評

 某句会の句報にこんな意見がのっていた。

 「東北の災害で、テレビの画面を見て詠んだ句は人の心を打つ事は出来ない。
災害の風景を詠んだだけ。一歩踏み込んで作ってみても、それはそらぞらしく、
被災者にとってはさかなでされて気分を害する。
当事者が落着いて俳句を詠むことが出来る日の来ることを節に祈ります」

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 偉い俳人の意見だが、どうもしっくりこない。
 そこで、あたしの意見。

 ご意見を慎重に読み、自分を落ち着かせながら、書いております。

 被災地から遠く離れた東京のあたくしが、「今、被災地の方々へ何が出来るか」
と問われれば、「何も出来ません」としか答えられません。
 確かに、何も出来ませんので、、、、。

 ほとんどの者が、テレビや新聞の間接的な情報から、悲惨さを
知ることをしているわけです。
 たとえ、間接的であっても、被災された方、それを救助する方が必死に
なって「生きること」に命をかけていることは感じ取れます。
 そして、涙が止まらない日々を過ごしています。

 遠くで出来ることは、今を大切に、自分を大事に、仕事に、生き甲斐に、
必死に生きる実感をもって行動するだけなんです。
 しかし、それは被災に対しての優越や余裕ではありません。断じてありません。
 俳句が大切なものであるので、あたしは必死に作りました。

 災害があると、催し物なぞが「中止になる」ということがあります。
それぞれ、事情を抱えての「中止」でしょうが、中止することなく行われている
こともあります。
 その一つが句会の俳句です。
 今回の地震を思う、多くのみなさんの句を、あたしは涙を流しっ放しで読みました。
 被災者、被災地のために作句したわけではありません。被災を知って、自分を見て、知って、作ったはずです。

 被災への思いとは、何もしないでいることだけではないはずです。
 遠く離れた者も今まで以上に必死に生きることです。
 その中から、被災地へ何が出来るか、湧いてくると思います。
 勝手に面白がって詠んだ句は一句もありません。

 今、高校野球大会が開かれてます。
 こういう状況下、選手はつらいことだらけで、満足なプレーとはいかなくても、
必死なんです。だからこそ、高校野球はやっているのです。
 俳句も同じです。下手であっても、必死で触れているんです。
                                        圓窓

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